第十三回:妻は「越路吹雪物語」を鑑賞している最中です。(ペーソス(pathos):もの悲しい情緒。哀愁。哀感)
固定型の歯列矯正期間が終了し、今は着脱可能な“リテーナー”と言われるマウスピースのようなものを口内に装着している。
一昨日、新宿高島屋地下の食料品街で、こっそりリテーナーを外した、右手で口元を隠し、誰にも気づかれず。しかし、気持ちはリングに上がる前のボクサーの様に猛々しく燃えていた。
歯列治療が、リテーナーに変わり、初めての“デパ地下”、今までは試食後の歯磨きが煩わしく避けていたが、もう臆する事はない。
10mm先には、餅ニラ饅頭の試食が繰り広げられていた。
目で見て既に美味そうだ、しかも一人に一つ。売り場を取り仕切っている親父は、気風よく大きな声で呼び込みをしている。なんと、あのおばさんには二個も挙げている、太っ腹。
リテーナーを外した私に敵は無い。猪突猛進でカウンターに向かう私。
明白な“食べる気”と明確な“買わない気”を纏う私を、即座に見切った試食場の親父が一枚上手だったようで、なぜか試食にありつく事は出来なかった、振り上げた拳は一つもヒットしなかったのだ、嗚呼。